観光 休日 繁華街・・・本気で楽しめない理由

ある家族が夏休みに観光へ出かけた。
子供は「家族そろって遠くへ行く」という非日常感で楽しそうだった。
しかし大人はどこか楽しめなかった。

ある家族が連休に外出した。
子供は「家族そろって電車のボックスシートで弁当を食べる」という普段とはちょっと違うシチュエーションに喜んだ。
しかし大人はどこか楽しめなかった。

ある家族が休日に繁華街へ出かけた。
子供は「家族そろって賑やかな場所へ行き、ついでに立ち寄った玩具店で欲しいおもちゃにさわることができた」というおまけにワクワクした。
しかし大人はどこか楽しめなかった。

心の底から楽しむことができなかったのはなぜか?

 

  • 旅先では全てが商業化され、観光地の人工的なサービスを消費することで時間を過ごした
  • 外出先でもいろいろなものごとが商業化され、様々な業者が提供するサービスを消費することで時間を過ごした
  • 繁華街でも代わり映えせず…何かしようとすると有料、無料であっても結局は何かの広告宣伝だったりする…に囲まれて時間を過ごした

どこへ行っても商売、商売、商売…。

行く先々で演じるのは「お客様」。

渇いた喉に乾いたパンを無理やり詰め込むように、観光や娯楽という「つくりものの商品とサービス」を食べさせられる。
飢えはしのげるが、美味しくない。
大半は不味い。
でもそれしかないから、仕方なく食べる。

それを認めるのも癪に障るので「まあ、こういうものだ」と無理に思ってみる。
消えない後味の悪さは見て見ぬふりをする。

そしてある種の虚しさを背負ったまま、翌日からまたラッシュの列車に乗り込む。
釈然としない気持ちを募らせ「ちょっと疲れたけど、楽しい休日だった」と自分に言い聞かせる日々はこれからも続く。

出所:中沢努「思考のための習作」

(初稿)2010年 6月23日

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筆者

中沢 努

早稲田大学文学部で哲学を学び卒業後、同時通訳訓練を受ける。
複数のコンサルティング会社で仕組みによる人間系の問題解決に従事した後、「人間そのもの」に焦点をあてたコンサルティングや教育を開始。

現在は「個の内面に深く入り込む」ことにより組織内の様々な問題解決を行う活動に従事。キャリア30年。

※ 筆者による他の教育資料もご参考下さい。→ ①公開資料集、②コンプライアンス資料庫