複雑であることに耐えられない軽さ
社会が病んでいます。批判や解説があふれています。しかし私には、それらのほとんどが本質を外しているように見えます。
どう外しているというのか?
メディアや言論市場で流通している社会問題に対する論評の多くは
- 「問題の責任は○○にある」
- 「だから××を廃止しろ/辞めさせろ」
- 「今度は△△だ」
というような単純な善悪二元論・二項対立的な言説です。「矛盾の集合体としての現実」が解体され、要素解され、捨象して語られているのです。
そんなことを言うと、言説を述べる側からは
「私は~の専門ですから、その枠組みの中でお話しているのです。それ以外のことは他の人に聞けばいいでしょう」
言説を読む/聞く側からは
「難しいのはちょとね。それに忙しいから「3分で分かる~」みたいなやつだともっといい。えっ、分かりやすさを求めて何が悪いの?」
という開き直りとしか思えないような言葉が両方から発せられるような気がします。
そうとしか思えないくらい、「ものごとの単純化」がまかり通っているように感じられるのです。
問題を問う人も、問われる人も、メディアに載せる人も、それを売る人も、それを買う人も、誰もが二律背反のジレンマを背負い、それを抱え込んだ上で
- 「いったいこれはなにごとか」
- 「なぜそうなるのか」
- 「どうしたらいいのだろう」
などという疑問を問いきれていないのです。
問うていないとは言わない。しかし問いきれてはいない。不合理で理不尽でぐちゃぐちゃでどす黒い現実を直視せず、「専門性」や「分かりやすさ」という錦の御旗に逃げ込むことでそのしんどさを安易に回避しすぎている。
それは直視ではなく安易な妥協と誤魔化しです。
勘違いすべきでない。複雑なものは複雑なままに受け止め、複雑さの難儀さ・不可思議さにどっぷり浸かって考える。単純化して考えるのはその後です。これが本来の姿です。
【貧困を生んだのは誰か?】
- 商品やサービスを安く手に入れようとしているのはあなたではないのか?
- あなたの期待に応えるために会社はコストをもっと下げねばならなくなる。
- それが社員の報酬増の障害となる。
つまり、あなたの欲望がまわりまわって見知らぬ誰かの給与水準を下げることにつながってるのではないか?
【日本の貧困者は自分の不遇を憂い社会を責めるだけでいいのか?自分だけが被害者なのか?】
- 生きるために安値を探し、最安値で買い物をしていないか?
- それは自分よりさらに安い工賃で働かされ、やっと生きている他国の貧しい労働者の賃金をもっと下げることにつながらないのか?
- でもそうしないと自分が生きられないこともこれまた現実。
では、結局誰が悪いのか? 俺か、あいつか、高級住宅地に住む金持ちか。
こういう目線を持たずに国や経営者を糾弾すれば問題は解決するのか?
現実とは複雑で矛盾を孕んでいるものです。N極とS極をきれいに切り離したくても切り離せないからこそ問題が問題として問題化しているのにもかかわらず、そうした現実に括弧でくくり、都合の良い部分だけを切り出して「NとSを分離しろ」とか「Nが悪い(Sが悪い)」と一方的に語っても刹那的な気晴らしにしかならないのです。
なぜこのあたりまえのことが普通のこととして感じられないのか、理解されないのか、そういう視点を持てないのか。
あなたは不思議に思いませんか?
それとも、こんなこと考えたことなかったでしょうか?
出所:中沢努「思考のための習作」
(初稿)2010年 6月1日
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筆者
早稲田大学文学部で哲学を学び卒業後、同時通訳訓練を受ける。
複数のコンサルティング会社で仕組みによる人間系の問題解決に従事した後、「人間そのもの」に焦点をあてたコンサルティングや教育を開始。
現在は「個の内面に深く入り込む」ことにより組織内の様々な問題解決を行う活動に従事。キャリア30年。
※ 筆者による他の教育資料もご参考下さい。→ ①公開資料集、②コンプライアンス資料庫