垢まみれで黒光りする体にボロを纏い、異臭を放つ浮浪者が駅の階段にうずくまっていた。
浮浪者の周囲はすえたような臭いで満ちていた。
ある人はわざと見ないようにし、ある人はそれとなく避けて通ろうとしていた。
多くの人がそこを通り過ぎて行った。人々は何を思っただろうか?
お気の毒にと思った人も中にはいただろう。しかし多くは「じゃまだ」「迷惑だ」「離れよう」と思いながら通り過ぎたのではないか。
ここでちょっと視点を変えてみる。
一人になり、目を閉じ、考えてみよう
- もしあなたの親が何かの事情で浮浪者になり、行くあてもなく、何も食べられず力尽き、意識も朦朧で駅の階段に横たわっていたとしたら、その浮浪者をゴミのように見つめた通行人をどう思うだろうか。
- あなたの子供が将来、何かの事情で浮浪者になり、今にも息絶えそうな状態で駅の階段にうずくまっていたとしたら「イヤなものを見てしまった」と目を背けた通行人をどう思うだろうか。
汚いものを汚いと思うのは当然である。異臭は異臭である。近づきたくないと思うのも自然である。
行政の責任だとか、人々の善意だとか、そういうことを言っているのではない。
浮浪者と自分で働き生きている人とは違うのであり、そこに差が生まれるのはやむを得ないのが現実だ。
しかし、そういう人だったとしても、その人も人間である。
こういう人間観だってあるのだ。
せいさつ(009)塵芥から光を見る
出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」
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