守ろうという気持ちになる心の動き
それは人間の本能によるもの

 

-自分の生き死にから考えるコンプライアンス-

 

(001)不幸という非日常

 

不幸があり、葬儀に出向いた。
告別式が終わりに近づいたころ、故人の息子が弔問客にあいさつをした。

その中にこんな言葉があった。

亡くなる前に父に言われました。
兄弟仲良くしろよ。
家族みんなで助け合えよ。
お母さんのことをよろしくな。
そう言って父は逝きました。
こんなことになってしまいましたが、家族みんなで過ごせた最後の数日は本当に幸せでした。

後半は嗚咽で声がほとんど聞えなかった。
でも、言っていることは分かった。

彼の気持ちを痛いように感じた私は、涙が止まらなかった。

兄弟仲良くしろよ。
家族みんなで助け合えよ。
お母さんのことをよろしくな。

何でもない時にこれらの言葉を聞いても、「そりゃそうだよな」とどこか軽く受け流す。
でも、こういう場面では違った言葉になる。

言葉は同じでも、それを聞く時の状態でその言葉は全然違ってくる。

幸福な日常を送っている時は、胸に迫ってこない。
どこか真剣みに欠ける。

でも不幸という非日常の時だと、胸に迫ってくる。
本気で「ああ、そうだな」と思う。

私は、自分の兄弟の存在を、家族の存在を、まだ生きている両親の存在を、腹の底から「ありがたいな」と思う気持ちに満たされた。

自分が生きていることに感謝しよう。
家族を大事にしよう。
親や兄弟と仲良くしよう。

腹の底から、そして無理にそう思うのではなく、自然にそう思った。

話しが飛躍するようだが、コンプライアンスも同じではないか。

何でもない日常を送っているからこそ、「コンプライアンスを守りなさい」という言葉が胸に迫ってこないのではないか・・・。

うまく言えないが、そんな気がした。

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(002)先人の言葉に浸る

 

先日、ある本を読んだ。
「証言記録 兵士たちの戦争」(NHK出版)という本だ。

 

そこにこんな言葉があった。

(引用始)

小泉保清さん

年中、ぬかるんだ道をガッポスッポ、ガッポスッポ歩いているから、
そうすっと今度、靴の中がふやけて足の皮が剥けちゃってよ。
で、血が噴き出してんだ。それだって歩かないとなんねえ。
歩っちまえばそんなことねえけど、一回休んじまうと、
今度いざ出発となったときに足の裏が痛くてよ。
そして靴の底さ綿敷いて、足の指と指の間に綿をからめて、
そうして歩いたんだ。
そして、なんとかかんとか耐えていくべとなったんだ。

 

菊地十男さん

死んでしまった人もいますよ。俺、死んだその人の足見たっけが、
もう骨見えるくらいなんだから。足の豆が潰れて。
初年兵だから隠して動いたんですよ。古年兵から怒られるから。
そんなことでどうするんだ、なんて気合いを入れられますから。
隠すんですよ。
誰にも「俺は足に豆ができている」なんて言わないんですよ。

 

田口良一さん

うちの機銃部隊が三人ぐらいやられて。
おなかの内臓が出ちゃって。
内臓入れて、針も何もないからね、大きいタオルでぐっと締めて。
手とか足とかも全部皮が剥けちゃっているから、それ包帯してやって。
みんな志願兵でね。みんな二三から二五ぐらいの兵隊でしょう。
そんでみんな、「お母さーん・お母さーん」ばっかりだわ、全部が。
「お父さん」「天皇陛下」なかった。一人も痛いって言わなかった。
みんな「お母さん」。

(引用終)

出所:「証言記録 兵士たちの戦争」 NHK出版

 

戦争を経験した人の言葉だ。
私はそれとまっすぐに向き合った。

反戦をイデオロギー的に叫ぶのではない。
労苦を賛美するのでもなく、哀れむのでもない。
ただただ素朴に、「ひとりの人間」として、先人の苦難に思いを馳せる。

他人事(ひとごと)とは思えなかった。

時計の針がずれていたら、自分がそこにいて
同じ経験をしたかもしれない、のだから。

 

先人の言葉に真摯に耳を傾ける。
そうすれば、「ひとりの人間として、すべきことはしない」という気持ちに素直になれるような気がした。

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(003)塵芥から光を見る

 

垢まみれで黒光りする体にボロを纏い、異臭を放つ浮浪者が駅の階段にうずくまっていた。

浮浪者の周囲はすえたような臭いで満ちていた。

ある人はわざと見ないようにし、ある人はそれとなく避けて通ろうとしていた。
多くの人がそこを通り過ぎて行った。人々は何を思っただろうか?

お気の毒にと思った人も中にはいただろう。しかし多くは「じゃまだ」「迷惑だ」「離れよう」と思いながら通り過ぎたのではないか。

ここでちょっと視点を変えてみる。

 

  • もしあなたの親が何かの事情で浮浪者になり、行くあてもなく、何も食べられず力尽き、意識も朦朧で駅の階段に横たわっていたとしたら、その浮浪者をゴミのように見つめた通行人をどう思うだろうか。
  • あなたの子供が将来、何かの事情で浮浪者になり、今にも息絶えそうな状態で駅の階段にうずくまっていたとしたら「イヤなものを見てしまった」と目を背けた通行人をどう思うだろうか。

 

汚いものを汚いと思うのは当然である。異臭は異臭である。近づきたくないと思うのも自然である。

行政の責任だとか、人々の善意だとか、そういうことを言っているのではない。
浮浪者と自分で働き生きている人とは違うのであり、そこに差が生まれるのはやむを得ないのが現実だ。

しかし、そういう人だったとしても、その人も人間である
こういう人間観だってあるのだ。

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(004)自分の人生を生ききる

 

自分の人生を生ききるとは、意志を持つことである。
自分の人生を生ききるとは、それを首尾一貫させることである。
自分の人生を生ききるとは、その意志を首尾一貫させたまま死ぬことである。

どういうことか?

以前書いた話しをもう一度紹介しよう。

 

 

・・・以下は、私(筆者、中沢)が若い時に書いたノートの一部だ。

 

(ノート引用開始)

金や名誉など、俗なものに魂を売る人間は多い。
しかし、その逆のものに自分を預け、それを貫くために命をかけ、実際に死ぬ人間は少ない。

今日は、「悲惨」や「苦しみ」を理解するために自ら進んで心身を傷つけ、死んでいった哲学者の話しをしよう。

その哲学者の名前はシモーヌ・ヴェイユ(シモーヌ・ヴェーユ)。

1909年パリに生まれ、最後は入院先の病院で医師の説得を受け入れず食物を拒否し、飢餓同然で34という若さで死んだ女性である。

彼女はインテリであったが、体が病弱だった。言葉で言い表せぬほどの激しい痛みが伴う持病を常に抱えながら生きねばならなかった。

ヴェーユは、貧しさを心の底から味わうために哲学教授という身分を明かさずに労働者として工場で働いた。

さらに、第二次世界大戦の時代にはレジスタンス要員として祖国フランスへ行くことができなかった代わりにフランス国内で配給として支給されている量の食べ物しか口にせず、祖国の人間と同じ窮乏を自らに課した。

そして、最後は入院先の病院で医師の説得を受け入れず食物を拒否し、飢餓同然で34歳という若さで死んだ。

ギュスターブ・ティボンはこう言っている。

「彼女は、単に〈知ること〉と〈全精神をつくして知ること〉とのあいだには絶望的なへだたりがあることを知りつくしていたし、みずからそのへだたりを体験していた。彼女の人生の目的は、ただこのへだたりをなくすということにつきた。」

功利的にはこれほど馬鹿げた人生はないかもしれない。

私は、シモーヌ・ヴェーユの自己犠牲を美化するつもりはない。

しかし、ヴェーユの「自分の信念や思想を愚直に全うしたその生きざま」には心の底から共感する

ギュスターブ・ティボンは続いてこう言った。

「シモーヌ・ヴェーユの文章は、注釈などをつけたりすれば、かえって品位をおとし、歪曲するだけになりかねないような、すぐれて偉大な作品の部類に入るものである。」

私は、ティボンのこの言葉に同意する。

だから、これからヴェーユの言葉をただ列挙してみる。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その1)

        • 貧困には、他にいかなる等価物もみあたらないような詩がある。それは、悲惨さという真理の中にみられる悲惨な肉体から発する詩である。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その2)

        • 苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その3)

        • 本当のものを表現するには、つらい努力が必要である。本当のものをそれと認めるのも、同じである。にせものならば、あるいはせいぜいのところ表面的なものならば、表現するにも、それを認めるにも、努力はいらない。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その4)

        • 肉体の苦しみ(それに、物質的な窮乏)は、勇気ある人たちにとって、忍耐力と精神力をためす機会になることが多い。だが、それらをもっとよく役立たせる道がある。だから、わたしにとっては苦しみが単に自分をためす機会に終わらないように。人間の悲惨を身にしみて感じさせるあかしとなるように。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その5)

        • 人間の悲惨をじっとながめていると、神の方へと連れ去られる。他人を自分自身のように愛しているときにはじめて、人はこの悲惨をながめうるのである。自分を自分としてでは、また、他人を他人としてでは、この悲惨をながめえない。

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その6)

        • 梃子。上げたいと思うときは、下げること。それと同じことで、「自分を低くするものは、高くされるであろう。」

(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その7)

        • 神よ、どうかわたしを無とならせてください。わたしが無となるにつれて、神はわたしを通して自分自身を愛する。

ヴェーユの言葉を前にして、私(筆者、中沢)は、ただただ沈黙する。

(ノート引用終わり)

 

「苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること」・・・彼女が自ら課した苦痛の中で言った言葉だ。

彼女は自分を甘やかしている私に迫り、その在り方を厳しく問い詰める。

ところで・・・

  • あなたは「何かに魂を売っている自分」を感じることがあるだろうか?
  • それを感じた時、あなたは、そんな自分を厳しく問い詰める「何か」を持っているだろうか?

そして・・・

  • 私(筆者、中沢)は「何かに魂を売っている自分」を感じることがあるだろうか?
  • それを感じた時、私(筆者、中沢)は、そんな自分を厳しく問い詰める「何か」を持っているだろうか?

考えて、考えて、考えねばならない。

 

 

自分の人生を生ききる人は、易きに流れない
自分の人生を生ききる人は、自分に嘘をつかない

あなたは、自分の人生を生ききっているだろうか?
私は、自分の人生を生ききっているだろうか?

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(005)不正の予備軍

 

「流される人」不正の予備軍だ。
状況に負けるからだ。

そういう人は目的があるようでない・・・というか曖昧に生きている。
だから同調的になるのだ。

一方、「流されない人」は、不正の機会が訪れてもその誘惑を断ち切る
状況に負けないからだ。

そういう人は、生きるにあたって、確固とした「何か」を持っている。
だから自分を保つことができる。

両者の差はどこからくるか?

生き方である。
何のために生きているのか、である。

だから、私はあなたに問う。

 

 

朝、駅の階段をダッシュしているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

出勤前、喫茶店でモーニングセットを頼んでいるあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

机の上、カバンを置きPCにパスワードを入力しているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

朝のミーティング、メモをとっているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

取引先へ、電話をしているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

お昼ごはん、外に出たあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

午後一番、あくびを我慢しているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

プロジェクト会議、報告やプレゼンをしているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

お疲れ様、先に帰る人を見送るあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

文書をセーブ、パソコンを閉じたあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

帰りの電車、吊革につかまっているあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

暗い部屋、横になったあなたに聞いてみたい。
「何のために生きているのですか?」

(中沢努「せいさつ(079)何のために生きているのか」より)

 

 

「流される人」と「流されない人」
「曖昧に生きている人」「確固とした何かを持っている人」

さて、あなたはどちらだろうか。

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(006)あなたは何を思うか

 

もし、あなたが不正を「した」とする。
或いは、不正を「させられた」とする。

あなたにとって、その事実を一番知られたくないのは誰だろうか?

 

 

「慣行だ。前任者もやっていた。ひとつよろしく頼む。」担当役員に呼ばれ、言われた。
断ろうと思ったが、ノーと言えなかった。

年老いた自分の親がこれを見たら何を思うか?
妻や夫が知ったら何を感じるか?
息子や娘が知ったら何と言うか?

(中沢努「コンプライアンス実感論」より)

 

 

もし、あなたの親があなたの不正を知ったら、あなたは何と言うのだろうか。
言い訳するか、事実を淡々と説明するか、感情を露わにして俺は被害者だと怒り狂うか。

親子関係は様々であり、その振る舞いは十人十色だろう。

しかし、その答えが何れであっても・・・

あなたは、あなたを産み、育ててくれた、あなたの親を悲しませるだろう。
あなたは、あなたを産み、育ててくれた、あなたの親を落胆させるだろう。
あなたは、あなたを産み、育ててくれた、あなたの親に恥をかかせるだろう。

そして、その親が亡くなったら。

自分の親の顔を思い出してみろ。
自分の親の写真を目の前に置いてみろ。
そして、父の、そして母の、目をじっと見つめてみろ。

 

あなたは何を思うだろう。

 

出所:中沢努「人間としてのコンプライアンス原論」

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(参考1)
不祥事再発防止策・不祥事再発防止教育のページ

(参考2)
この人は正論を吐くが、確かにそれに値する人だ